第32話目次第34話
「雨が強くなった……もう帰らないと……」
 
雨の中、花桜梨は中央公園にいた。
 
花桜梨は雨が嫌いではなかった。
何か花桜梨の自分の心のなかを表しているような気がするからだ。
なにか自分と通じるものを感じていた。
だから、雨の日は時おり中央公園を散歩していた。
 
「こんなときに誰もいないよね……えっ?あれは……陽ノ下さん!」
 
花桜梨の前には傘もささず、濡れたまま一本の樹を見つめている光の姿があった。

太陽の恵み、光の恵

第8部 倦怠期編 その4

Written by B
「陽ノ下さん!なにしてるの!濡れてるじゃない!早く傘の下へ……」

花桜梨は急いで光のところに向かった。

「こないで!」
「えっ」

しかし強い口調で光が花桜梨を拒む。

「このまま……濡れたままにさせて……」
「どうして!」
「うちはずぶ濡れがお似合いなんや……」

光は小さく哀しい声だった。
雨でよく見えないが光は泣いているようにも見える。
 
(陽ノ下さんの姿、表情、瞳……どこかで見たような……はっ!)

花桜梨は感じていた。

(これは……あの頃の私じゃない!……全てを失った私と同じ……)
 
寂しそうな光の姿に去年の自分の姿を重ねていた。
友人に裏切られ、全てを失ったあのころの自分の姿に。
 
(どうして陽ノ下さんが?……ねぇ、そんな表情見せないで!……そんな姿は私だけで十分……)
 
光の姿に花桜梨は自分のことのように心を痛めた。
いても立ってもいられず、花桜梨は思わず声を上げた。
 
「陽ノ下さん!いったい何があったの!教えて!」
「………」

「私、今のあなたを放っておくことができない!」
「………」

「何か言って、陽ノ下さん!」
「………」
 
光は樹に向かったままだった。
 


長い沈黙のあと、光が語り始めた。
 
「八重さん……知ってる?」
「えっ?」
「春にね、この樹だけ桜が咲いてなかったんや……」
「そうなんだ……」
 
花桜梨もこの樹は知っていた。この樹になにか自分と同じものを感じていたのだ。
しかし、光がなぜそれを?
花桜梨には理解ができていなかった。
 
「うちみたいやね……」
「そんな!どうして……」

信じられなかった。
この樹と同じ人は自分しかいないと思っていたから。
しかし、花桜梨にとって信じられない言葉が次に待っていた。


「実はな……うちな、本当は結婚しとるんや……」


哀しい表情で樹を見つめたままの光の告白。
冗談で言っているとは思えない。
でも誰と?

「えっ!誰と!」
「……公二なんや……」

驚いた。
それは自分を導いてくれた名前と同じだった。

「えっ、公二君?……もしかして主人君のことなの!」
「そうや……学校では隠しているんやけどな……」

いまだに信じられないが納得するしかない。
それでも花桜梨の中で今までの出来事の小さな糸が少しずつ繋がっていく。
そのなかで思い出したのは前に光と一緒にいた女の子。
まさか……

「じゃあ、あの恵ちゃんってまさか……」
「そう……うちが産んだ公二との子供や……」

そのまさかだった。

「信じられない……」
「そうだよね、信じてくれないよね……だってうち、誰も信じなかったから……」

信じられなかった。
それよりも花桜梨が衝撃を受けたは今の光の姿だった。
光の哀しい表情が自分を見ているようで心を痛めつける。
 


「えっ、それどういうことなの?」
「あのな……公二が八重さんに近づいたとき、浮気者って怒ったの……公二の言い分も聞かずに」

花桜梨はまた驚いた。
まさか、今の光の変貌の原因に自分が関わっていたなんて。

「主人君、なんて言ったの?」
「『俺は楓子から彼女と友達になってと頼まれただけだ』って……でもうちは最初からまったく信用してへんかった」
(楓子ちゃんが!私の為にそんなことを!)

それは一番気にしていた人の名前だった。
楓子が自分の知らないところで自分のためにやっていたなんて。

「それから、うちらの仲がどんどん悪くなって……とうとう、行き着くところまできたんや」
(もしかして私が2人の仲を悪くしたってこと?)

花桜梨は事態の大きさにようやく気が付いた。
自分が迷い悩み苦しんでいる裏で、光や公二もまた苦しんでいたことを。

「最後には楓子ちゃんまで疑って……『楓子ちゃんが公二と恋人になるための罠だ』って」
「………」

さらには楓子までも巻き込んでいたとは。
もう、光の問題は自分の問題になっていることを実感した。



そして一番苦しんでいるであろう光はいま自分の目の前でずぶ濡れで泣いている。
声もとぎれとぎれになっている。
 
「でも、違っていたんや……公二は私に嘘は一言も言ってへん……なのに、なのに……」
「陽ノ下さん……」

「うちは公二を信用してなかった!」
「………」

「どんなときでも、妻の私が最後まで信じなければいけないのに……一番最初に疑ってしまった!」
「………」

声を荒げ、自分の罪を懺悔する光。
しかし、その懺悔はだれに向けられているわけでもない。
ただ、自分と貶める以外なんでもなかった。

「うちと公二はもうおしまい……」

「だから……うちはこの桜の樹と同じ。花は散ってもう二度と咲かない……ただ迷惑な人間……」

今にも消えそうな声でじっと樹をみつめる光。
今にも光自身も消えてしまうように花桜梨には見えた。
 


花桜梨の心の中から湧きあがる感情。
光に伝えたい想い。
もう花桜梨は黙っていられなくなった。

「それは違うわ!」
「えっ……」

花桜梨の声に初めて花桜梨のほうを向く光。
その表情は驚きの表情が少しだけ混ざっていた。

「今が駄目でも、これから信じればいいじゃない!」
「八重さん……」

必死に光に語りかける花桜梨。
ここ最近出したことのない大声で語りかける。

「あきらめちゃだめ!もう一回やり直せばいいじゃない!」
「でも……」

光の心に届いて欲しい。
花桜梨はその一心で問いかける。

「この樹だって花は咲くわ。今年は何かあって咲かなかっただけよ!」
「でも……たとえ、咲いても……」

花桜梨の口から自然に熱い思いがあふれ出る。
そしてその思いが光に少しずつ伝わっていく。

「遅く咲いてもいいのよ!焦って早く咲いたところで、色も香りもなかったら意味が無いのよ!」

「………」

「陽ノ下さんは、陽ノ下さんのペースで咲けばいいのよ!」


そして、光の表情から悲しみが消えた。
徐々に穏やかな表情に変わっていく。
 
「……ありがとう。うち、決心がついたわ……もう一回やりなおしてみる……公二が許してくれるのなら」
「うん……今の陽ノ下さんだったらきっと許してくれるわ」
「……ありがとう、八重さん」
 


そのとき、向こうから一人の男が現れた。
男は光と目があった。
 
「あなた……」
「光……」
 
公二だった。
彼もずぶ濡れで公園をさまよっていたのだ。
 
「光、許してくれ!」
「あなた、どうしたの!」
 
公二は光の目の前で土下座をした。
光は公二のところにかけより、屈んで公二を見つめた。
 
「光……俺、ずっとおまえに隠し事をしていた……」
「あなた……」

「喧嘩していたとはいえ、本当のことを最初に話していれば……こんなことには……」
「そんなことない……悪いのは……」

光の言葉に公二は首をなんども横に振って否定する。

「違う!俺が、光に相談していれば、今ごろこんなことにはなってないんだ……すべて俺がいけないんだ!」
「それは、うちがあなたを信じなかったから……」

「俺たち夫婦なのに、なにかのときに一番に話さなくてはいけないのに……隠し事してしまって……信じてくれなくて当然だよ」
「そんな……」

公二の言葉はそれは自分の気持ちと同じだった。
それは当たり前のこと。
しかし二人はついさっきまで気づいていなかった。
それが二人の罪の意識を大きくさせていた。

「楓子ちゃんや八重さんの事ばかり考えて、光のことなど考えてなかった……」
「………」

「俺はどうしようもない男だよ……」
「あなた……」

公二にも光にも昨日まで言い争っていた憎しみの気持ちはまったくなかった。
いまは自分がしてしまった罪の大きさを感じるだけ。

「でも……頼む、俺にやりなおすチャンスをくれ!」
「えっ」

「わかってる……俺は夫として許されない罪を犯したってことを……」
「そんな……」

自分だって妻として許されない罪を犯してしまった。
しかし公二はそれを咎めようとしない。全て自分の責任にしている。
そんな公二の姿に光自身の心は大きく揺さぶられた。

「でも……俺には光しかいないんだ!」
「あなた……」
「俺は……光がいなければ何もできない男なんだ……」
「………」
「虫のいい考えかもしれないが……このとおりだ!頼む」
 
公二は頭を地面にこすりつけたまま動かない。
光は公二の態度が本心であるのを悟った。
 


もう二人の間には障害はなにもなかった。
 
「……許して・あ・げ・る」
「光……」
「でも、次は許さないからねっ」

光は満面の笑みを浮かべて公二に話しかけた。
それが今の自分にできる最大の誠意だった。

「光!」
「ちょっとあなた!」
 
感極まった公二は光には飛びついた。
そして、力強く光を抱きしめた。
その公二の瞳は涙で潤んでいた
 

「ううっ……」
「あなた……」
「俺、やっと目が覚めたよ……」
「えっ?」

公二は涙声ながらもようやく声が出始めた。

「優しいだけじゃいけないんだよな……時には突き放す勇気もいるんだよな」
「そうやね」

「それができなかった俺は、突き放す辛さからただ逃げていたんだよな……」
「………」

「おかげで光を苦しめてしまって……ごめんな、光」
「うちもあなたを信じられず、苦しめちゃったから……ごめんね」

お互いに謝る二人。
抱きしめた力を緩めてお互いに見つめ合う。

「光が許してくれるならば……もう一回、やりなおしてくれないか……」
「うん、いいよ……うちからもお願い……うちとやりなおしてください……」

「改めて言うよ……光、愛してるよ……」
「うちも言うね……愛してる……」
 
夫婦の絆を取り戻した2人にもうこれ以上の言葉はいらない。
二人は無言でじっと抱き合っていた。
 


花桜梨は二人の姿を見つめながら、さっき自分がいった事を振り返っていた。
 
『今が駄目でも、これから信じればいいじゃない!』
『あきらめちゃだめ!もう一回やり直せばいいじゃない!』
『この樹だって花は咲くわ。今年は何かあって咲かなかっただけよ!』
『遅く咲いてもいいのよ!焦って早く咲いたところで、色も香りもなかったら意味が無いのよ!』
『陽ノ下さんは、陽ノ下さんのペースで咲けばいいのよ!』

必死に叫んでいた自分自身の言葉がいまは自分の心に響いている。

(あの二人は私と同じ状況だったのに、もう一回やりなおそうとしている……)

花桜梨の閉ざされた心が徐々に開かれていく。

(そうだよね……あきらめちゃいけないよね……逃げちゃいけないんだよね……)

まるで今の雨のように暗い心を綺麗に洗い流していく。

(『信じられるかどうかわかる前に、あきらめるな』か……そうだよね……まず信じなければ何も始まらないよね……)

そして花桜梨の心は再び光り輝こうとしている。

(まさか、自分が説得したことで、自分が説得されるなんて思わなかったな……)
 


「………」
「………」
 
公二と光は無言で抱き合ったままだった。
雨で濡れることなどお構い無しに。
それぞれの想いを再確認するかのように。
 
そんな二人に不意に雨が遮られた。
 
「風邪引きますよ……おふたりさん」
「八重さん……」
「八重さん……」

二人が見上げるとそこには傘を自分たちの上に差している花桜梨がいた。
花桜梨の表情はとても優しかった。

「早く家に帰ったほうがいいんじゃない?……愛しい娘さんが待っているんでしょ?」
「えっ、なぜ八重さんが俺たちのことを?」
「ごめん……さっき私がしゃべっちゃった……」

驚く公二、申し訳なさそううつむく光。

「大丈夫よ……誰にも話さないから……だって友達でしょ?」
「ありがとう……八重さん」

そんな二人になぜかほほえましく思ってしまう花桜梨。
花桜梨は二人の恩人に自分の決意を語り出す。 

「ううん……お礼をいうのはわたしのほう……」
「えっ?」

「主人君と陽ノ下さんは、私に大切なことを教えてくれた……自分一人ではわからなかったことを」
「八重さん……」

「私も……やりなおしてみる!もう一回信じるところから……」
「そうなんだ、よかった……」

「主人君、陽ノ下さん。ありがとう……」

公二も光も喜びの表情が浮かぶ。
花桜梨の事を自分のことのように喜んでくれる。
花桜梨はそれだけでも嬉しくなった。

「お礼を言うなら俺たちより楓子ちゃんにいいなよ……」
「えっ?」

「八重さんを一番心配していたのは彼女だから……」
「そうだよね……楓子ちゃんがいなかったら、ずっと前のままだったかもしれないね……」

そうなのだ、花桜梨がここまで変わったのは楓子が花桜梨を心配してくれたから。
途中、色々あったけど、やはり楓子がいなければなにも変わらなかった。
そう思うと花桜梨は心の中で楓子に感謝していた。

「そうだな……」
「さあ、帰りましょ!……八重さん、一緒に家に来ませんか?」
「じゃあ、喜んで……」

3人は光の家に向かう。
しかし公二と光は濡れたまま、腕を組んで歩いている。
今の二人は雨も心地よいものなのかもしれない。
 


3人は光の家についた。
恵が玄関に迎えに来ていた。
 
「ママ〜!パパ〜!おかえり〜!」
「ただいま、恵……ごめんな、恵に迷惑掛けて」
「恵。パパとママは仲直りしたからもう大丈夫や!」

公二と光は笑顔で恵に寄り添う。
本当は抱きしめたかったが、濡れているのでそれはやめた。

「わ〜い!」
「よかったね、恵ちゃん」
「うん!おね〜ちゃん!」

恵の満面の笑み。
久々にみた恵の笑顔だった。
それをみて花桜梨も嬉しくなってしまう。

「ん?何で恵は八重さんを知ってるんだ?」
「このまえ、恵を連れていったとき……八重さんに会ったの、そのときは親戚の子ってごまかしたけど……」
「そういうことか……」

「恵ちゃんって可愛くていい子ね……羨ましいな、陽ノ下さんが……」
「そ、そんな……照れちゃうな……」
「あ〜!ママ、かおあかい!」

「はははは!」
「うふふふ!」

昨日までの冷たい雰囲気はそこにはない。
ここにあるのは暖かい家族の雰囲気だった。
 


夜もふけてきた。雨は依然強く、風もさらに強くなってきている。
3人でTVを見て世間話をしているとき、一本の電話がかかった。
 
「はい、陽ノ下ですが……えっ、いつもお世話になってます」
「えっ……家にはいまへんけど……」
「えっ!……わかりました。こちらでも探してみます……」

光の表情は焦りの色でいっぱいになっている。
 
「どうした?光?」

「楓子ちゃんが家に帰ってへん!どこにいるかまったくわからへんって!」
To be continued
後書き 兼 言い訳
倦怠期編クライマックスです。
公二と光はやっと元の鞘に収まりました。よかったよかった。
仲直りシーンの台詞。さんざ推敲した結果がこれです。いやあ、難しい・・・
 
次回は第8部最終話です。
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